企画構成吟   西南戦争と西郷隆盛
企画構成:後藤旦早
シンセサイザー:有坂旦悠
ナレーション:竹内宙山
詩吟:桜萩会「詩吟の会」の皆さんと旦早流吟詠会の皆さん
明治維新の最大の功労者は西郷隆盛であり、西郷なくして明治維新は在り得なかったといっても、決して過言ではないでしょう。しかるに、この西郷隆盛が、なにゆえ「西南戦争」によって「朝敵」の汚名まできせられ、故郷の山で51年の生涯を終えねばならなかったのでしょうか。「西南戦争」の原因とされるものには「征韓論」のあることはご承知の通りであります。では、そもそも「征韓論」とはどう云うことだったのでしょう。明治新政府は最大の難関といわれた廃藩置県を行い、「徴兵令」、「廃刀令」「断髪令」など、次々に実行しました。反面、名誉の刀を奪われ、マゲも切らされた士族たちの気持ちは如何ばかりであったことでしょう。こうした旧士族の怒りが各地で燃え上がったのが佐賀の乱や、肥後勤皇党の神風連、福岡の秋月の乱などです。その様なとき隣国の李王朝が、日本の国交の申し入れを拒否してきました。そこで閣議は国交々渉が進まぬ朝鮮へ西郷隆盛を使節として派遣する決定をしました。然し、海外に活路を求めようとする旧士族を中心に、使節では生温い、「韓国討つべし」という強行論が盛り上がり、「征韓論」の声が強くなってきました。是に対して、欧米視察から帰国した大久保利通等が強く反対し、一旦閣議で決定されていた西郷等の国交々渉案は取り消されてしまったのです。所謂「征韓論」に敗れた西郷は、参議の職を辞して故郷鹿児島に下野しました。その時、陸軍少将になっていた桐野利秋や篠原国幹らをはじめ、約600名が西郷の人柄を慕い鹿児島に戻ってしまいました。ここで、この間の心情を詠った篠原国幹の詩「逸題」を男性会員の皆さんが吟じます。 

馬を緑江に飲うは 果して何れの日ぞ                  
一朝事去って壮図差う
此の間誰か解せん英雄の恨み
手を袖にして春風落花を詠ず

鹿児島では、これら若者の将来を考え、私学校を設立、学問、軍事両面の教育を行ないました。参議を辞したとは云え西郷は陸軍大将の肩書きのままでした。その超大物西郷を頂点に独立国的様相を持った薩摩に対し、政府は危機感を抱き20数名のスパイを送り込みました。是に対し、私学校生達は、その中の数人を捕え拷問にかけ、政府の弾薬庫を襲撃したのです。西郷が大隈地方に狩に出ていた間の出来事でした。怖れていた政府側の挑発に私学党が乗ってしまったのです。事ここに至っては万事窮すでした。政府の処置に従うとすれば、略奪に参加した数百人に及ぶ私学校生を罪人として引き渡さねばならず、西郷には、それは心情として出来ないことでした。結局、薩摩私学党に担がれる形で西郷は兵を動かす決心をしました。静かに余生を送りたかったのですが、憂国の志が、又、鹿児島の特殊性がそれを許さなかったのです。時に明治十年二月十五日。南国に雪さえ降る寒い日でした。これが西南戦争の始まりです。本営と砲隊は、栗野から北上し、その日、西郷はえびの市飯野の吉田温泉、昌明寺近辺の宿に一泊し、加久藤峠を越え熊本へと進軍しました。薩摩軍は桐野利秋、篠原国幹、村田新八、別府晋介ら、西郷に従うもの一万余、最終的には、小林、飯野、都城、宮崎、飫肥、高鍋、延岡、大分、熊本等近隣諸藩から徴収された部隊が加わり約3万の大部隊となりました。二月二十一日、熊本城の攻防戦が始まり、「田原坂」の激戦へと突入しました。十八日間続いた戦いで両軍合わせて1万4千人が戦死したこの田原坂こそ、日本陸軍と旧士族による最初の戦いであり、日本人同士が血を血で洗った最後の戦場となったところです。

雨は降る降る 人馬はぬれる 越すに越されぬ 田原坂
右に血刀 左手に手綱 馬上豊かな 美少年

この美少年こそ、薩軍の勇将村田新八の長男の初陣の勇姿を謡ったものと云われております。ここで、薩摩軍熊本隊の小隊長として参戦し、田原坂の決戦に破れて捕らえられた佐々友房の詩「西南の役陣中の作」を女性会員の皆さんが吟じます。

雨は戦砲を撲ち風砂を捲く
江山十里両三家
壮図一蹴窮まり無きの恨み
馬を断橋に立てて落花を看る

十八日間の激戦の末、篠原国幹や、身近なところでは、本日此処に出席の橋口会長の曽祖父橋口清一郎さん等戦死され田原坂は落ちました。遂に薩摩軍は南に向けて退却をせざるを得なかったのです。一旦、人吉に集結しましたが、ここでも、政府軍に追われ都城に残る兵力を集めました。7月11日政府軍は都城から鹿児島への退路を断つべく小林に進入、高原、飯野を陥落しました。えびの市の「官軍坂」等このときの名残です。その後都城も制圧され宮崎に退いた薩摩軍は、ここも政府軍に占領されてしまったのです。そして和田峠で激戦の末延岡北2里にある長井村に集結した時は、圧倒的な力の政府軍に袋の鼠のごとく包囲され、まさに万事窮すの状態となっていました。大分を抜け、小倉方面に出て活路を開こうとしていた薩摩軍でしたが、軍議の結果、ここで軍を解き、故郷鹿児島に帰る決意を初めて明確にしたのです。西郷が、それまで連れていた愛犬二頭を解き放ち、栄誉ある陸軍大将の軍服と、重要書類一切を、本営にしていた児玉家の庭前で焼いたのもこの時です。中津藩の義勇隊を率いていた増田栄太郎は隊の解散に当たり「一日先生に接すれば一日の愛を生ず、三日先生に接すれば三日の愛を生ず。親愛日に加わり、去るべくもあらず、今は善も悪も死生を共にせんのみ」と語り、最後まで西郷と城山に籠もり、壮烈な戦死を遂げました。西郷の人間的魅力が、いかに絶大であったかを知るエピソ−ドでもあります。そして又西郷は、自分を厳しく律していた人でした。ここで西郷自ら作詞した「偶感」を有坂旦悠が吟じます。

幾たびか辛酸を暦て 志始めて堅し
丈夫玉砕するも 甎全を愧ず
吾が家の遺法 人知るや否や
児孫の為に 美田を買わず   
                    

八月十七日深夜、西郷は、各隊から残存する精兵600名を集めて延岡[可愛岳]の突破を敢行し、五日後、神話の里高千穂町三田井には入りました。行く先々で政府軍と戦いながら、三田井から米良街道を南下,須木村を通り,八月二十八日夜10時頃「小林」に到達したのです。その足で上の馬場の押川家に立ち寄り田原坂で戦死した押川公愛の霊を弔い、現在の市役所のところに有った時任家で一泊しました。米良山中に住む人々も、小林の人々も薩軍に好意的でした。尤も薩軍には小林郷から368人、飯野郷から                      196人をはじめ西諸全体から約1500人が出陣していることを思えば当たり前の事かもしれません。そういえばその頃、東京や大阪では、毎夜東の空に,一際明るい光を放つ星が出現しました。人々はこれを、江戸の町を戦乱から救ってくれた「西郷星」と呼び話題を呼んでいました。西郷はこうして何時の間にか生きながら天に昇り、星になっていたのです。小林に到着した頃薩軍は軍資金も底を突いていました。律儀な西郷は一泊した時任家の枕の下に立派な金製の懐中時計とお礼の手紙を置いていたそうです。後でそのことに気付いた時任家や小林の人達はその心根に皆泣いたといいます。翌朝早く、野尻で政府軍と戦い、以前狩に来て、数日間逗留したことのある飯野末永の白鳥温泉を横目で見ながら、吉松、栗野、を経て横川に向かいました。九月一日小競り合いの中、ようやく、鹿児島 城山に到着しました。熊本で戦かった薩摩軍は約三万人でしたが、城山に帰り着いたのは、僅か372名、その内、銃火器を有するものは150名となっていました。それから約二十日間、城山岩崎谷の洞窟に籠もり壮絶な戦いが続きました。九月二十四日、愈々政府軍4万の総攻撃が始まりました。この戦いで、流れ弾が西郷の股と腹に当たりました。西郷は傍らの別府晋介を顧みて「晋どん、晋どん、もうこん辺でよかが、介錯をしっくいやい」と叫びました。負傷の為西郷は起つことができなかったのです。同じく負傷していた別府晋介でしたが、西郷の言葉を聞きつけて「先生、まこち無念なことでごわす」と一瞬戸惑いながらも「御免」と一声掛けて一刀のもとに西郷の首を切り落としました。西郷吉之助、享年51才。時に明治十年九月二十四日午前七時、国を憂い、旧士族達の行く末を案じながら巨星「西郷星」は落ちました。因縁の大久保利通が翌年5月暗殺され、結局、政府が僅か17年後日清戦争で韓国、満州に攻め入った事を知ることもなく。。。。。。
それでは「城山」の詩吟入りで、歌謡吟「あヽ大西郷」を後藤旦早が詠います

城山昏れて 陽は落ちて
人馬に荒ぶ 風寒し
あヽ回天の 業ならず
大西郷よ なに思う

孤軍奮闘 囲みを破って還る
一百の里程 塁壁の間
吾が剣は己に折れ 吾が馬は斃
秋風骨を埋む 故郷の山

薩摩の空の 月かげに
煙も白き 桜島
あヽ 憂国の 志
伝えて燃えよ 永遠に

では最後に、まだ西郷の若かりし幕末に、福岡の 勤皇の志士 平野国臣が作詞した「わが胸の」を合吟してお別れ致します。
お手元に配布しております楽譜をご覧になり、皆さんも一緒に吟じて下さい。

「わが胸の燃ゆる思いにくらぶれば 煙は薄し桜島山」

(壇上の全員で)「有難う御座いました」